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日本文学史-中世

来源:抵帆知识网


中世文学

キーワード:軍記物語、隠者文学、無常観

隠者文学(いんじゃぶんがく)とは、主に日本の中世において、俗世間から隠遁する道を選んだ者達(僧侶や隠者など)によって書かれた作品群の総称である。和歌、随筆、日記、文学とその形態はさまざまなものがある。

保元の乱(ほうげんのらん)は、平安時代末期の保元元年7月(1156年7月)に地位をめぐる確執から後白河天皇(ごしらかわてんのう)と兄の崇徳上皇(すとくてんのう)が対立し、双方の武力衝突に至った政変である。

承久の乱(じょうきゅうのらん)は、鎌倉時代の承久3年(1221年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げて敗れた兵乱である。承久の変、承久合戦ともいう。

武家政権である鎌倉幕府の成立後、京都の公家政権(治天の君)との二頭政治が続いていたが、この乱の結果、幕府が優勢となり、朝廷の権力は制限され、幕府が皇位継承などに影響力を持つようになる。

『保元物語』(ほうげんものがたり)は保元の乱(ほうげんのらん)の顛末を描いた軍記物語である。

保元元年(1156年)に起こった保元の乱を中心に、その前後の事情を和漢混淆文(わかんこんこうぶん)で描く。

作者は古くから何人かの名前が挙がっているが、明らかにはなっていない。『保元物語』の成立に関しては、わかっていることはあまり多くない。

この『保元物語』に『平治物語』『平家物語』『承久記』を合わせた4作品は「四部の合戦状」(『平家物語勘文録』)と称され、保元から承久にいたる武士の勃興期の戦乱をひと続きのもとして理解する見方が中世からあったことが確認できる。

鳥羽法皇(とばてんのう)の崇徳院(すとくてんのう)への譲位問題より始まり、鳥羽法皇が崩御したのをきっかけに崇徳院が挙兵。崇徳院と後白河天皇(ごしらかわてんのう)との皇位継承争いを軸に、藤原忠通(ふじわらのただみち)、藤原頼長(ふじわらのよりなが)の摂関家の対立、源義朝(みなもとのよしとも)と源為義(みなもとのためよし)の源氏の対立、平清盛(たいらのきよもり)と平忠正(たいらのただまさ)との平家の対立が加わり、崇徳側の敗退、以降の平治の乱、治承(じしょう / ちしょう)・寿永(じゅえい)の内乱の予兆までを記す。細かい内容は諸本によって差異があるが、何れも源為朝(みなもと の ためとも)の活躍がメインとなっている。また為朝の父の源為義をはじめ、敗者となった崇徳・頼長らに同情的であり、この敗者への視点が本作品の主題ともいえる。

『平治物語』(へいじものがたり)は平治の乱の顛末を描いた軍記物語。

成立・作者に関しては、確かな資料は多くない。

平治元年(1159)、後白河上皇(ごしらかわてんのう)方最大の武力勢力であった平清盛(たいらのきよもり)が熊野参詣に出かけた隙を狙って、かねてから藤原通憲(ふじわら の みちのり)(信西)と後白河の寵愛をめぐって権力争いを起こしていた藤原信

頼(ふじわらののぶより)が、保元の乱での賞与などで平家の圧迫に不満を覚えていた源義朝(みなもとのよしとも)を語らって挙兵する。上皇を大内裏で監禁、通憲を殺害し一度は権勢を握るものの、熊野から引き返した平清盛に敗れ、信頼は処刑、義朝も暗殺される。以降、平家政権の全盛や没落、鎌倉幕府の成立などまでを描いた諸本も多い。『保元物語』や『平家物語』と同様、和漢混淆文で叙述されている。諸本によって内容に異同は大きいが、悪源太義平(源義平(みなもと の よしひら))の武勇譚や、源義経(みなもと の よしつね)の母である常盤御前(ときわごぜん)(常葉とも)が、老いた母のために清盛のもとへと赴く哀憐の話が中心を占めている。『保元物語』と同様に源氏に対して同情的な内容であるのが特徴である。

『平家物語』(へいけものがたり)は、鎌倉時代(かまくらじだい、1185年頃-1333年)に成立したと思われる、平家の栄華と没落を描いた軍記物語である。

保元の乱・平治の乱勝利後の平家と敗れた源家の対照、源平の戦いから平家の滅亡を追ううちに、没落しはじめた平安貴族たちと新たに台頭した武士たちの織りなす人間模様を見事に描き出している。和漢混淆文で書かれた代表的作品であり、平易で流麗な名文として知られ、「祇園精舎の鐘の声……」の有名な書き出しをはじめとして、広く人口に膾炙している。

源平盛衰記(げんぺいせいすいき/げんぺいじょうすいき)は、軍記物語の平家物語の異本のひとつ。48巻。著者不明。

二条院(にじょうてんのう)の応保(おうほう)年間(1161年-1162年)から、安徳天皇(あんとくてんのう)の寿永(じゅえい)年間(1182年-1183年)までの20年余りの源氏、平家の盛衰興亡を百数十項目にわたって詳しく叙述する。

軍記物語の代表作の一つとされる。平家物語を元に増補改修されており、源氏側の加筆、本筋から外れた挿話が多い。その冗長さと加筆から生じる矛盾などを含んでおり、文学的価値は『平家物語』に及ばないとされるが、「語り物」として流布した『平家物語』に対し、「読ませる事」に力点を置かれた盛衰記は「読み物」としての様々な説話の豊富さから、後世の文芸へ与えた影響は大きく、さまざまな国民伝説の宝庫である。

『方丈記』(ほうじょうき)は、鴨長明(かものちょうめい、かものながあきら)によって書かれた鎌倉時代の文学作品。

漢字と仮名の混ざった和漢混淆文で書かれたものとしては、最初の優れた文芸作品であり、詠嘆表現や対句表現を多用し、漢文の語法、歌語、仏教用語を織り交ぜる。

『方丈記』の中で長明は、安元(あんげん)三年(1177)の都の火災、治承四年(1180)に同じく都で発生した竜巻(たつまき)およびその直後の福原京(ふくはらきょう)遷都、養和(ようわ)年間(1181~1182)の飢饉、さらに元暦(げんりゃく)二年(1185)に都を襲った大地震など、自らが経験した天変地異に関する記述を書き連ねており、歴史史料としても利用されている。

『徒然草』(つれづれぐさ)は、吉田兼好(卜部兼好、兼好法師)が書いた随筆。

序段を含めて244段から成る。文体は和漢混淆文と、仮名文字が中心の和文が混在している。

序段には「つれづれなるままに」書いたと述べ、その後の各段では、兼好の思索や雑感、逸話を長短様々、順不同に語り、隠者文学の一に位置づけられる。兼好が歌人、

古典学者、能書家などであったことを反映し、内容は多岐にわたり、また、兼好が仁和寺がある双が丘(ならびがおか)に居を構えたためか、仁和寺に関する説話が多い。

『十六夜日記』(いざよいにっき)は藤原為家(ふじわら の ためいえ)の側室(そくしつ)・阿仏尼(あぶつに)によって記された紀行文日記である。内容に所領紛争の解決のための訴訟を扱い、また女性の京都から鎌倉への道中の紀行を書くなど他の女流日記とは大きく趣きを異としている。鎌倉時代の所領紛争の実相を当事者の側から伝える資料としても貴重である。一巻。大別すると鎌倉への道中記と鎌倉滞在期の二部構成。弘安(こうあん)6年(1283年)ころ成立か。

阿仏尼自筆の原本は下冷泉家(れいぜいけ)(織豊時代まで播磨国細川庄を伝領していた公家)に伝来していた。

『海道記』(かいどうき)は、貞応(じょうおう)2年(1223年)成立と考えられる紀行文。内容は貞応2年(1223年)4月4日、白河の侘士なる者が京都から鎌倉に下り、17日鎌倉に着き、善光寺参りの予定をやめて、さらに帰京するまでを描いている。中世三大紀行文(ほかに『東関紀行』、『十六夜日記』)のうちの一つ。作者未詳。

東関紀行(とうかんきこう)は、仁治(にんじ)3年(1242年)成立と考えられる紀行文。中世三大紀行文(ほかに『海道記』、『十六夜日記』)のうちの一つ。作者は未詳。鴨長明、源光行(みなもと の みつゆき)、光行の子の源親行(みなもと の ちかゆき)らを作者とする説があったが、おのおのの経歴と齟齬(そご)をきたすことから、これらの作者説は近年では否定されている。とりあえず作者未詳としておくことが一般的となっている。仁治3年(1242年)の、京都東山から鎌倉に赴くまでの道中の体験や感想を主として構成されている。和漢混淆文で、風景描写などが紀行文の優れた型といわ

れる。『平家物語』や松尾芭蕉にも影響を与えた。

『新古今和歌集』(しんこきんわかしゅう)は鎌倉時代初期、後鳥羽上皇(ごとばてんのう)の勅命によって編まれた勅撰和歌集。古今和歌集以後の8勅撰和歌集、いわゆる「八代集」の最後を飾る。「万葉」「古今」と並んで三大歌風の一である「新古今調」を作り、和歌のみならず後世の連歌・俳諧・謡曲(ようきょく)に大きな影響を残した。

古今に倣って複数人の撰者を持つ。源通具(ほりかわ みちとも)・六条有家(ふじわら の ありいえ)・藤原定家(ふじわら の さだいえ)・藤原家隆(ふじわら の いえたか)・飛鳥井雅経(あすかい まさつね)・寂蓮(じゃくれん)の六人に撰者の院宣が下ったが、寂蓮は完成を見ずに没した。

成立過程

建仁(けんにん)元年(1201年)7月和歌所を設置、同年11月撰進の院宣が下り、元久(げんきゅう)元年(1204年)に選定、翌1205年3月26日完成し奏覧・竟宴。その後、建保4年(1216年)12月まで切継作業が続いた。

一般的に4つの期間に別れる。

院宣(いんぜん)とは、上皇からの命令を受けた院司が、奉書形式で発給する文書

• 第1期 - 建仁元年(1201年)の下命時から、撰者達が歌を集めてくるまでであ

る。代々の勅撰集に漏れた秀歌や、六百番歌合(ろっぴゃくばんうたあわせ)(良経主催)と千五百番歌合(上皇主催)が撰歌の母胎となった。

• 第2期 - 上皇自らにより歌の吟味、選別をした時期。

• 第3期 - 歌の部類、配列をした時期。撰者以外の寄人も作業に加わる。元久元年

(1204年)までに一旦完成した。

• 第4期 - 歌の修正、切継をした時期。承元(じょうげん)四年(1210年)-建

保四年(1216年)の間に最終的に完成した。

構成

巻は20巻で、

• 春歌(上下)

• 夏歌

• 秋歌(上下)

• 冬歌

• 賀歌

• 哀傷歌

• 離別歌

• 羇旅歌

• 恋歌(一~五)

• 雑歌(上中下)

• 神祇歌

• 釈教歌

巻頭の仮名序は藤原良経(ふじわら の よしつね)、巻末の真名序は藤原親経による。歌数は八代集中最多の1979首を収録し、すべて短歌である。配列は巧みで、四季巻は季節の推移順、恋歌は恋の進行程度順に並べられており、古代の歌人と当時の歌人を交互においてある。

歌風 新古今調といえば、唯美的・情調的・幻想的・絵画的・韻律的・象徴的・技巧的などの特徴が挙げられる。定家の父俊成によって提唱された幽玄、有心の概念を、定家が発展させて「余情妖艶の体」を築き上げ、これが撰歌に大きく反映されている。

幽玄(ゆうげん)とは、文芸・絵画・芸能・建築等、諸々の芸術領域における日本文化の基層となる理念の一つ。同じ歌道の理念である有心(うしん)とともに並び用いられることが多い

元弘の乱(げんこうのらん)は、1331年(元弘元年)に起きた、後醍醐天皇を中心とした勢力による鎌倉幕府討幕運動である。1333年(元弘3年/正慶2年)に鎌倉幕府が滅亡に至るまでの一連の戦乱を含めることも多い。1331年から1333年までの戦乱に

ついて述べる。元弘の変(げんこうのへん)とも呼ばれる。

建武の新政(けんむのしんせい)は、鎌倉幕府滅亡後の1333年(元弘3年/正慶2年)6月に後醍醐天皇が「親政」(天皇がみずから行う政治)を開始した事により成立した政権及びその新政策(「新政」)である。

名は、翌1334年に定められた「建武」の元号に由来する。第二次世界大戦前のいわゆる皇国史観においては建武の中興と表現されていた。

『増鏡』(ますかがみ)は、歴史物語。成立は南北朝時代と推定される。作者は未詳だが、二条良基(にじょう よしもと)説や洞院公賢(とういん きんかた)説、四条家(しじょうけ)関係者説などがある。いわゆる「四鏡」の成立順では最後に位置する作品である。内容的には最も新しい時代を扱っている。

四鏡(しきょう)は平安時代後期から室町時代前期までに成立した「鏡物(かがみもの)」と呼ばれる『大鏡』(おおかがみ)・『今鏡』(いまかがみ)・『水鏡』(みずかがみ)・『増鏡』の4つの歴史物語(歴史書)。成立時期より前の時代の内容を扱っている。

現在のものは二十巻からなり、『弥世継』(いやよつぎ)(現在亡失)を継承して、寿永3年(1183年)の後鳥羽天皇の即位から元弘3年(1333年)後醍醐天皇が隠岐(おき)に流され、その後、京都に戻るまでの、15代150年の事跡を編年体で述べている。

巻数については古くは十七巻本と十九巻本が存在していた。

構成は全体が三部に分かれており、第一部は後鳥羽院を中心に記しており、(おどろ

のした)から(藤衣)まで、第二部は(三神山)から(千島)までで後嵯峨院を中心に記述しており、第三部は(秋のみやま)から(月草の花)までで後醍醐天皇の即位から隠岐配流・親政回復までをのべている。この時代の和漢混淆文ではなく擬古文体で書かれているのも特徴である。

『太平記』(たいへいき)は日本の古典文学の一つである。

全40巻で、南北朝時代を舞台に、後醍醐天皇の即位から、鎌倉幕府の滅亡、建武の新政(けんむのしんせい)とその崩壊後の南北朝分裂、観応の擾乱(かんのうのじょうらん)、2代将軍足利義詮(あしかが よしあきら)の死去と細川頼之(ほそかわ よりゆき)の管領就任まで(1318年 (文保2年) - 1368年(貞治(じょうじ)6年)頃までの約50年間)を書く軍記物語。今川家本、古活字本、西源院本などの諸種がある。「太平」とは平和を祈願する意味で付けられていると考えられており、怨霊鎮魂的な意義も指摘されている。作者・成立時期は不詳。

内容

全体の構想にあるのが儒教的な大義名分論と君臣論、仏教的因果応報論が基調に有り、宋学の影響を受けたとされる。この考え方にもとづき、後醍醐天皇は作中で徳を欠いた天皇として描かれるが、水戸光圀(徳川 光圀とくがわ みつくに)は修史事業として編纂していた『大日本史』において天皇親政をめざした後醍醐こそ正統な天皇であると主張した。これにより足利尊氏(あしかが たかうじ)は逆賊であり南朝側の楠木正成(くすのき まさしげ)や新田義貞(にった よしさだ)などは忠臣として美化され(徳川将軍家は新田氏(にったし)の末裔を称していた)、これがのちに水戸学として幕末の尊王攘夷(そんのうじょうい)運動、さらに太平洋戦争前の皇国史観へと至る。中盤の後醍

醐天皇の死が平清盛の死に相当するなど、随所に『平家物語』からの影響が見られ、また時折本筋を脱線した古典からの引用も多く、脚色も多い。

皇国史観(こうこくしかん)とは、日本の歴史を天皇中心に捉え、万世一系の天皇家が日本に君臨することは神勅に基づく永遠の正義であり、天皇に忠義を尽くすことが臣民たる日本人の至上価値であるとする価値判断を伴った歴史観のことである。

菟玖波集(つくばしゅう)は、南北朝時代に撰集された連歌集。巻数は20巻。句数は2190句。以上の構成は、勅撰和歌集の部立てに倣ったものである。

連歌(れんが)は鎌倉時代ごろから興り、南北朝時代から室町時代にかけて大成された、日本の伝統的な詩形の一種。多人数による連作形式を取りつつも、厳密なルール(式目)を基にして全体的な構造を持つ。和歌のつよい影響のもとに成立し、後に俳諧の連歌や発句(俳句)がここから派生している。

二条良基(にじょう よしもと)が僧救済(ぐさい)の協力を得て撰集し、1356年(正平11年/延文元年)に成立、翌1357年(正平12年/延文2年)閏7月11日に勅撰に准ぜられ、最初の准勅撰連歌集となった。連歌集の成立及び准勅撰の指定については佐々木道誉(ささき どうよ)の力添えが大きかったことから、出詠者には天皇家・公家のほか足利尊氏・義詮・佐々木道誉などの武家が多く含まれている。古来からの連歌も収められ、連歌の変遷を見ることができる。また、この連歌集の撰出により連歌が和歌から独立し、独自の文化としての地位を占めるようになった。作者名の明らかな者は450名で鎌倉期以後の作者が大部分を占めている。

新撰菟玖波集(しんせんつくばしゅう)は、室町時代後期の准勅撰連歌撰集。20巻。

句数は約2000句。

大内政弘(おおうち まさひろ)の発願により、宗祇(そうぎ)を中心として、猪苗代兼載(いなわしろ けんさい)・宗長(そうちょう)・肖柏(しょうはく)らの協力により撰集され、1495年(明応4年)に成立した。心敬(しんけい)・宗砌(そうぜい)・後土御門天皇(ごつちみかどてんのう)・専順(せんじゅん)・大内政弘(おおうち まさひろ)など約250人の句を集めた有心連歌の集大成である。

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